ウィキリークスについての話をもう少し続ける。
ウィキリークスが公電を暴露したことを批判した人は多かった。「情報がそうやって可視化されてしまったら、政府の統治能力はどうなるのか。あるいは重要な情報が犯罪者やテロリストや仮想敵国や、そういうところに渡ってしまったらどうするのか」
これを政府の立ち位置から語るのであれば、もちろんその批判は当たっている。外務省にいた佐藤優氏のウィキリークス批判はそういう意味で的を射ていると思う。しかしメディアの立ち位置からであれば、この批判は本来はあり得ない。なぜなら本来、「知る権利」はマスメディアにとっては絶対的なテーゼのはずだからだ。
この絶対的なテーゼを原理主義的に厳密に遂行し、ジュリアン・アサンジ氏のように「知る権利」を極限まで推し進めるのであれば、「政府は情報のすべてを公開せよ」という回答にならざるを得ない。
しかしアサンジ氏の考えがあまりにもアナーキーだと思う人もいるだろう。だとしたら、じゃあ線引きはどこに行うのか? いったいどのような基準に基づいてある情報は隠し、ある情報は公開を是とされるのか?
もちろん、個人のプライバシーを暴露するような情報であれば判断は簡単だ。しかしたとえば尖閣ビデオの場合、プライバシーはまったく関係なかった。あくまでも政府の統治行為に対する影響の大小でしかない。だとすると毎日新聞が「責任の所在を明らかにせよ」と吠えたのは、いったいどのような線引きにおいて行われた言動なのか?
なぜ新聞は第三書館を非難しなかったのか?
政府の情報流出事件に関しては、警視庁公安部のテロ情報というのがあった。プライバシー暴露という問題で言えばこちらの方がよほど重大だ。警察官や捜査協力者の住所や氏名、顔写真などがそのまま掲載されていたからだ。だがこの流出テロ情報を、筋金入りの左翼メディアである第三書館が書籍として刊行した際、毎日は第三書館をまったく罵らなかった。罵らないどころか、第三書館社長の「全世界に配信されているインターネットの情報を活字にして出版できないのは、活字メディアの自殺行為。法的対抗措置を取りたい」というコメントを独立した記事として紹介したほどだったのである。
毎日記事を引用しよう。
「北川明社長は毎日新聞の取材に『イスラム教徒をテロリスト扱いするのはおかしい。警視庁は流出を認めていない。提示することで読者に判断を任せようと思う』と話した。
しかし、改訂版でも差し止めを求めた人以外のプライバシー情報は残されたままだ。仮処分申請の代理人・河崎健一郎弁護士は『決定の趣旨を踏まえて公人ではない人の個人情報については、包括的に削除するなどプライバシーに配慮した出版方法があるのではないか』と指摘する。
一方、ネット上にはデータが流出したままだ。情報セキュリティー会社『ネットエージェント』によると、10月28日から約1カ月で世界22カ国・地域で1万286人が文書を入手、うち国内が1万24人を占める。同社は『200人未満だった10月29日ごろであれば拡散を防ぐ技術もあった』と指摘し『1万人を超えた今は、拡散を防ぐのは物理的に無理だ』と話す」
尖閣ビデオとこの公安テロ情報を較べれば、プライバシー侵害の点に絞っても後者の方がずっと深刻だ。ところが毎日は後者については第三書館のコメントを比較的平静に掲載し、なぜか記事の途中から問題をネット批判にすり替えている(これは微苦笑せざるをえないが)。しかし尖閣ビデオについては「責任の所在を明らかにせよ」と迫った。ということは、これは明らかだ。
毎日は、漏洩した内容が深刻かどうかではなく、漏洩チャネルがネット経由だったことに腹を立てているだけなのである。
対立軸が勧善懲悪だけになっている
ここには、対立軸の混乱が見て取れる。そもそも「何をもって公開/非公開の判断基準とするのか」という観点において、客観中立など絶対にあり得ない。そこには常に、「何を優先するのか」というプライオリティの問題が立ち上がってくるからだ。サンデル先生の授業でも語られているように、「正義」をきちんととらえ直さなければいけないのである。図1のような政治哲学における立ち位置によって、この判断基準は変移する。
だが日本のマスメディアは、こうした政治哲学的な対立軸をまったく提示できていない。そこにある対立軸は、以下の図2のようなものだ。幻想の勧善懲悪物語でしかない。
この日本のマスコミの内在的問題にはここではこれ以上踏み込まないが、ともあれ、私がここで言いたいのは、情報のどこまでは公開し、どこまでを秘匿するべきなのかというその線引きを行うのは、非常に困難であるということだ。もし政府の政策への影響を考慮して「公開すべきである」「秘匿すべきである」と判断するのであれば、当然そこには政府とメディアとの距離と立ち位置が関係してくる。つまりは「メディアがどのぐらい政府の政策を支援し、あるいはどのぐらい政府の政策に批判的か、あるいはどうでもいいと思っているのか」というところに依る、ということなのだ。
だからウィキリークスではアメリカ政府とあまり関係のない英ガーディアンや独シュピーゲルは積極的にウィキリークスを援護したし、オバマ政権に近い立ち位置のニューヨークタイムズやニューズウィークはウィキリークスを強く非難した。そもそも新聞社の好きな「客観中立」に基づいて情報公開の是非を判断するなどというのは、夢物語でしかない。
バイアスを織り込み済みで判断されるメディア空間
モジュール化されたジャーナリズムにおいては、各モジュールはそれぞれの構造や価値観に基づいて独自のやりかたで情報をフィルタリングする。そこでどの情報が取捨選択されたのかは、つねに可視化されている。当然、モジュールにはバイアスがある。しかしそれらのモジュールは「自分は客観中立である」というような嘘を述べたりはしない。バイアスを自身が持っていることは承知のうえで、そのバイアスを公開することによって公平性を担保しているのだ。
そして情報を受け取る側も、それらのモジュールに内在しているバイアスを織り込み済みにして、情報を受け取るのだ。そのようにして結果的には客観性は保たれる。ただひとつのメディアが「自分は客観中立でござい」などとたわごとを述べなくても、全体のバランスの中で結果として客観性が生まれるという、そういう未来をモジュール化されたジャーナリズムは保証していくのではないかと私は考えている。