なぜ日本ユニバは被災地支援を行っているのか
孤立被災地への支援活動を行っている「日本ユニバ震災対策チーム」の活動については、これまでに2回このブログで紹介してきました。「被災地に救援物資を! いま私たちに求められていること」という3月17日の記事、そして3月19日の「被災地で何が起きているのか、そしてNPOはそこでどんな活動をしているのか」という記事です。
4月の第1週にふたたび日本ユニバを取材してきました。代表の横尾良笑さん、そして上野清彦さん、森啓太郎さん、土井香織さんに話をうかがいました。記事化が遅れましたが、ここで取材結果をまとめておこうと思います。
日本ユニバはもともと災害支援のボランティアを行う団体ではありません。母体となっている日本ユニバーサルデザイン研究機構は、ユニバーサルデザインの取り組みを推進し、「ユニバーサルデザインコーディネーター(UDこ」という資格の認定を行っているNPOです。ただこうしたユニバーサルデザインの分野は医療や教育、建設、食料品、情報通信など広範囲にわたっていて、これらの各分野でのさまざまなプロフェッショナルなスキルを持った人がこのNPOには集まっています。そういう意味で、日本ユニバは「実際の活動はしていないけど、そうした活動を行う人を始動・育成・研究してきた」という後方支援的な位置づけだといえます。
その後方支援的なNPOがなぜ今回、災害支援に乗り出したか。
きっかけは、気仙沼市の老人ホームからの支援の要請があったからです。そしてこの時、偶然にもヘリと自ら操縦を提供してくれる
ボランティアの方がいたこと。そうして横尾さんや上野さんは東京からヘリで現地に入り、支援物資を届けてきました。震災翌日の12日のことです。
孤立被災地の発見、そして
そしてこの時にたいへんな事態に気づいてしまう。
上空から被災地を見ると、多くの場所が水没して海のようになってしまっていたのです。そしてその海の中に、ぽつりぽつりと小さな島々が点在している。これらの島々は、もちろんもともと島だった場所ではない。水没しなかった被災地が取り残されて、島のように水面に浮かんでいる状態になっているということなのです。そしてそれらの島々には、まだ多くの人が被災して取り残されている・・。
これまでの震災と今回の震災では、被災地の面積がまったく違います。しばらく前にTIME誌に掲載されていた記事では、「阪神大震災は50キロ圏だったが、今回は500キロ圏だった」と書かれていました。そうしてその膨大な面積の被災地の多くは、高齢者の多い小さな集落です。自衛隊や消防の救助隊などの活動をもってしても、そうした孤立被災地をすべてカバーすることはできません。
このことに気づいた横尾さんたちは、即座に「震災対策チーム」を立ち上げ、自ら支援活動に乗り出すことになるのです。マスコミなどでクローズアップされている被災地や避難所ではなく、誰にも目を止めてもらっていない孤立被災地へ「物資を!」という日本ユニバの呼びかけは、多くの人の心を動かしました。
詐欺疑惑、そして内紛とトラブルは続く
とはいえそこからの日々では、いろんなたいへんなことが本当にたくさんあったようです。たぶんご存じの方も多いと思いますが、当初横尾さんがUDコーディネーター受講修了者向けに同報したメールがオープンに公開されてしまい、「サギだ」「デマだ」とTwitterなどで騒ぎになるということも起きました。
この対応に追われていると、今度は現地へのボランティア派遣の段取りがおろそかになってしまい、ボランティアたちから「なんとかしてください!」と突き上げられたり。
そして詐欺疑惑が晴れた後は、今度は物資が大量に集まりすぎて本部のあるちよだプラットフォームスクウェアの庭がいっぱいになって溢れてしまい、管理者から注意されたり。
そういう状況の中で、しかし日本ユニバのボランティアたちは徐々に数も増え、積極的に活動を展開していきました。とにかく多くの避難所に電話をかけ、必要とされているものを聞く。現地に物資を運んだボランティアたちが、避難所周辺で情報収集し、孤立避難所がどこかにあるかどうかを聞いて回る。
ライフラインも情報も絶たれた三陸へと入る
三陸の入り組んだ土地では、高台の避難所から海側にしか道路がつけられておらず(山を越える道がない)、津波で壊滅した場所を回り込んでいかなければ到達できないような場所もあったようです。こうした場所は自衛隊でさえも気づいておらず、日本ユニバのチームが発見して自衛隊に連絡し、補給線を確保してもらうというようなこともあったようです。
小さな民家の屋上や居酒屋の2階にに数家族だけが残って共同生活していたりとか、そういうケースも無数にありました。もともと共同体の強い地域ですから、コミュニティ力が半端なく強い。だから物資は乏しくても、皆で分け合ってなんとか生き延びている。水は沢からくんできて、農家で備蓄していた米や野菜を食いつないで、なんとか生き延びているというような状況が、3月下旬にはあちこちの場所であったようです。
日本ユニバでは、Twitterで流れた「○○で物資が不足しています!」「△△で食糧がなく死にかけています!」といった情報についても、逐一電話をかけて確認していったそうです。
「岩手からの情報がない!」
残念ながらこれらのTwitter拡散情報はデマか、デマでなければ情報がゆがんで伝わってしまっていたり、あるいはすでに解決済みの情報だったりというケースが大半でした。しかし日本ユニバのチームは、そこでひとつ大きなことに気づく。
「Twitterから流れてくる情報の大半は宮城県と福島県で、岩手県からの情報はもの凄く少ない!」
これは何を意味しているのか。岩手県の場合、県庁所在地の盛岡市は内陸で比較的被害は少ない。そこで盛岡の県対策本部に電話を入れてみると、先方は「道が悪くて行けてない場所があるが、そこそこ行けてますよ。困窮してないんじゃないかな」という。しかし本当にそうなのか。実際にボランティアがなんとか入ってみると、実はたいへんな困窮状態だった。それなのに情報が完全に途絶し、電話もネットも使えず、リアス式海岸でクルマでの移動もままならず、対策本部に情報がうまく届いていないことがわかったのです。
つまり、ソーシャルメディアに情報が発信されていないということは、ネットを使えないぐらい情報途絶して困窮していたということだったのです。
無数の温度差が生じている被災地
今回の震災では、そうした場所が無数にありました。気仙沼市と合併した旧本吉町は、もう町役場がなくなっているので市からうまく物資が届いていなくて困窮していた。そこで合併前の町長(現在は気仙沼市の市区長という肩書きに)に連絡を取り、被害の軽微だった「はまなすの丘」という老人保健施設を物資の輸送拠点にして独自に支援網を構築していきました。
マスコミの報道では気仙沼市や陸前高田市、石巻市など被害が大規模で「絵になりやすい」場所に目が向きがちです。取材場所も、どうしても大規模な避難所が中心になってしまう。避難者が多い方が絵になりやすいし、取材相手が多い方が美談も探しやすい。でもその一方で、マスコミが目を向けないために忘れ去られている場所もたくさんある。
いや、そうした単純な二項対立ではないようです。
たとえば福島県いわき市では、市の支援物資集積地にはたくさん物資が集まっているのに、市民に充分配られていないという批判が一時高まったことがありました。「市が物資を貯め込んでる」とか言われたり、さらにはあろうことか「ピースボートが物資を横流し」というようなデマまで現れたり。
しかし日本ユニバの横尾さんによると、いわき市は非常に面積が広い(静岡市に次いで全国2位)ことに加え、物資集積地の平競輪場や市役所は海岸に比較的近い場所にある。そして震災以降かなりの期間にわたって、ガソリンは圧倒的に不足していました。この結果、たとえばおにぎりがどさっと競輪場に届いたとしても、それを賞味期限内に運べる場所には限りがあり、結果として市役所から近く、あるいは人が多く集まっている水の配給場所などに集中的に持って行くしかないわけです。そしてこれが不公平を生む。水の配給場所に行けるのは、よほど近所に住んでいるか、そうでなければガソリンがあってクルマで移動できる人たちだけ。ガソリンがない人、クルマを持たない人のところには物資が届かないということになると言うことなのです。
非被災地から見ると、どうしても「被災地」「避難所」という言葉で一律に同じような状況だと考えてしまいがちになります。「体育館のような場所で毛布を敷いて、配給の食事を受けている高齢者中心の人たち」といった映像がテレビのニュースを通じて繰り返し流され、そうして被災地のイメージは一様化していってしまっています。
しかし同じ被災地でも、状況は人によってまったく異なっていると横尾さんは話しています。ガソリンとクルマを持っている人、持っていない人。自宅にいる人、避難所にいる人。同じ避難所でも、数世帯で孤立した避難所で暮らしている人、大規模な避難所にいる人。さらには福島第一原発事故の退避地域、屋内退避地域、そしてその周辺。
まだら模様のように無数の「温度差」が生じ、その温度差は容易には埋められません。そしてその温度差に合わせた支援を行うのも、当然のように非常に困難が伴っているといいます。
ボランティアと被災者をどうつなげていくのか
さらにはここに外部の人がボランティアで大量に入ってきていることによって、ネガティブな影響さえ出てきてしまっている。たとえばそれまでは避難所の中で小さいけれども強固な結束力を持つコミュニティを維持できていたのに、ボランティアが運んできた物資が全員に行き渡らないことによって不公平感が生まれてしまい、それが結束力を弱めてしまうというようなことが起きているというのです。
さらにはもちろん、見知らぬ人が増えたことで治安の悪化への不安も生じているようです。
そうした状況と、ボランティアの活動をどうつなげるのか。本当に難しい問題がたくさんあるようです。
日本ユニバの活動は当初、孤立被災地への小さなライフラインを確保することを最優先にしてきましたが、徐々に生死に関わるような事案は減ってきていて、活動の中心軸もそれによって少しずつ変わってきています。
孤立被災地への支援は継続し、さらにもうひとつの軸として「特別なニーズに応えていく」ということ。その物資を求めているのがたった一人しかいなくても、その人のために届ける。
日本ユニバではさまざまなものを送り込んでいます。授乳室に使えるようなパーティションのワンセット。糖尿病など持病の薬。もちろん医師ではないボランティアが医療活動ができるわけではないのですが、医薬品を医療機関同士で輸送することは認められているので、現地の医師にカルテを書いてもらって患者さんに渡すというようなことを行っているわけです。まだら模様のような被災地の現状に対応していくためには、大規模な補給線の確立と同時に、日本ユニバが行っているこのようなピンポイントの補給も非常に大切なのではないかと思います。
「与える」から「自ら立ち上がる力」へと
そして横尾さんはこう語っています。「被災者の方に『与える』というような行為は途中でやめないといけないと思う。阪神大震災でもそうだったけど、かわいそうだからと物資を送るという行為は善意から出たものであっても、そこには対等の精神がないんです」
たとえばアフリカの難民支援に寄付するという行為を考えてみる。もしアフリカの難民がマックのハンバーガーを食べてネクタイを締めてたら、支援するでしょうか? おそらく多くの日本人は、支援しないんじゃないでしょうか。なぜならアフリカの難民は「裸で食べ物に困っていている人」というかわいそうな人たちというイメージがあるからです。つまり私たちは、そこに無意識のうちに上下関係を作ってしまっている。
だからアフリカだろうが日本国内だろうが、実は問題は同じなのです。私たちのやることは、「『与える』は終わらせていくこと。途中からは、『自ら立ち上がる力』を支援する方向へとシフトしていかないといけないんです」(横尾さん)。
つまりは「今回はたいへんでしたね。また一緒にビジネスしましょうよ!」という関係にしないといけないということなのです。そうした関係性こそが、きっと復興への力となっていくのでしょう。
私は今後も日本ユニバの活動を応援し、彼らの活動を紹介していこうと思っています。