ジャーナリズムの定義が揺らいでいる





ウィキリークス問題が波紋を広げ続けている。「ウィキリークスはメディアなのか?」「それはジャーナリズムといえるのか?」「情報はどこまで透明化されることを許されるのか?」といった問いがあちこちで噴出し、しかしそれらに対して今のところわかりやすい答はない。
なぜ明快な答が無いのかといえば、そもそもそれらの質問の大前提そのものが揺らいでいるからだ。「メディアなのか」「ジャーナリズムといえるのか」という問いについて言えば、じゃあメディアやジャーナリズムの定義とはいったい何なんだ?ということを問い直さなければならない。
既存の新聞社・テレビ局・出版社・ラジオ局、そしてそこに所属する記者やそれらのメディアに寄稿・出演しているフリージャーナリストといった既存のマスメディア空間だけを「メディア」「ジャーナリズム」として定義するのであれば、ウィキリークスはメディアでもジャーナリズムでもない。
しかし既存メディアの範疇には入らないインターネットのメディアも最近はたくさん現れてきている。ITmediaやCNET、J-CASTやGIGAZINEはじゃあいったいどうなんだ、という問題だ。「いやそれらは一応組織形態になってるから」というのであれば、じゃあ2ちゃんねるの書き込みは? ブログは? ツイッターは? きりがない。そもそもどこかに「ここから先はジャーナリズム」「ここまでは違う」と線引きすること自体が不可能だ。ウィキリークスから新聞やテレビの間の距離は果てしなく遠いとマスメディア業界人は考えているかもしれないが、その間の距離はさまざまな新興メディアによって埋めつくされていて、今や歩いて渡れるようになってしまっているのだ。
モジュールとしてのウィキリークス
ウィキリークスの登場が意味することは明快だ。それはジャーナリズムがモジュール化しつつあることの象徴なのである。以下、説明しよう。
かつてジャーナリズムは、新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアによって垂直統合されていた。内部告発者や企業広報、経営者などの一次情報源はどこかに存在しているけれども、その情報源の姿は読者である人々の側にはさらけ出されていない。マスメディアが取材からその記事の意味づけまでをも包括的に提供し、そのプロセスをすべてブラックボックスにして垂直統合することで、ある種の信頼感のようなものを醸成していた。「何を取材してそのうちの何を記事にしているのかは定かではないけれども、偉い新聞記者さんだからきちんと考えていらっしゃるんだろう」というような漠然とした信頼感である。
ところがこのマスメディアの信頼感は、2000年代に入るころから失墜してしまった。その背景事情は非常に大きな話なのでここでは語らないが(いずれ書籍の形で皆さんにお届けしたい)、ネットの影響が引き金になったことは間違いないだろう。一次情報源にあたる人たちが「ひどい取材だった!」「告発したのにマスコミにもみ消された」とブログやツイッターなどで発信するようになり、メディアのブラックボックスが実はあんまり信用できないものだということがわかってしまったのである。そこで生じたのが、プロセスの可視化への強い欲求だ。
「いったいどのような一次情報が本当は存在しているのか?」「メディアはそれらの中からどの情報をフィルタリングしたのか?」「その情報を恣意的に取り上げた理由は?」「その情報にどのような意味づけを与えたのか?」というようなことをすべて白日のもとに晒さなければならない時代になったのである。
なぜ新聞は自分の首を絞めようとするのか
これは古いメディアの人たちにとっては実につらい要求だ。だから彼らは「いやそんなこと言わずに私たちのブラックボックスを信じてくださいよ」「私たちが皆さんのために公共圏を担っているんですから」と反論する。尖閣事件で海上保安官が中国船衝突ビデオをYouTubeで流出させた時、毎日新聞は「統治能力の欠如を憂う」と憤激して見せた。以下、引用しよう。
「尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の模様を海上保安庁が撮影したビデオ映像の一部がインターネット上に流出した。同庁と検察当局が捜査資料として保管していた証拠の一部である。その漏えいを許したことは政府の危機管理のずさんさと情報管理能力の欠如を露呈するものである」
「捜査権限を持つ政府機関の重要情報の漏えいはつい先日も明らかになったばかりだ。テロ捜査などに関する警察の内部資料がネット上に流出した事件だ。横浜でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議を前にした度重なる失態は菅政権の統治能力すら疑わせる。早急に流出経路を解明し、責任の所在を明らかにしなければならない」
冷静に考えれば権力監視ジャーナリズムは内部告発に依拠しているのだから、「責任の所在を明らかにしなければならない」などと叫ぶのは自分で自分の首を絞めることにほかならない。おそらく毎日新聞は「新聞こそが公共圏の担い手なのであって、新聞を経由しない情報など許してはならないのだ!」と考えているのだろう。しかしその「マスコミこそが公共圏の担い手」という枠組みそのものが、すでに根底からゆらいでいる。
正しい輿論を形成する場所を公共圏の定義だとしよう。かつては公共圏=マスメディア、だった。つまりマスメディアが支援して形成された輿論こそが、その社会の輿論であるという考え方。でもいまや公共圏はマスメディアの外側へと湧出しはじめていて、素人くさい勧善懲悪主義ばかりが目につくマスメディア言論の外側では、もっと真っ当な識見をもった専門家などが真っ当な議論をブログやツイッターなどで交わすようになっている。もちろんそこには大量のノイズもある。根拠なき付和雷同、根拠なき誹謗中傷も渦巻いている。つまりいまや公共圏は、かつてのようなフィルタリングされた美しいマスメディア装置から、ノイズ渦巻く荒々しい荒野へと変貌しつつある。
そういう風に公共圏が変容してきたこと、公共圏の担い手が専門家の総体とそれに付随する膨大なノイズの集積へと流動化してきたことを、われわれは受けとめなければならない。そしてマスメディアの人たちもそれを認識しなければならない。
公共圏の担い手が多様化している
そういう状況では、垂直統合されたブラックボックスメディアは非常に成り立ちにくい。なぜなら公共圏を担うのがマスコミという一枚岩の組織だった時代にはブラックボックスでも問題はなかったが、公共圏の担い手がさまざまな専門家やブロガー、ツイッターをやってる人たちなどどんどん多様化していくと、それらの多様化した担い手の間で秘密を保って情報をやりとりするなんていうこと自体が、とうてい不可能になってしまう。それらの担い手の間で情報をやりとりするためには、「情報はどこにあるのか」「その情報はどこからどこへ流れたのか」「その情報をフィルタリングして選んだのは誰か」といったことがすべて可視化されないといけない。可視化されているからこそ、ノイズの山をくぐり抜ける中でも正当性は保証されるのである。これはいい悪いの是非論ではなく、情報がオープン化してしまうネット時代における強力な「原理」だ。だれもこの原理には刃向かえない。
内部告発者の側も、従来のようにマスメディアに情報を渡すだけでは「ひとつのメディアだけでは情報が拡散しないのではないか」「そもそもメディア企業に握りつぶされるのではないか」という不安に駆られる。情報可視化時代においては、そういう内部告発者がブラックボックスメディアではなく、流通経路がオープンになっているウィキリークスのような内部告発情報プラットフォームに気持ちが向かうのは当然のことである。それでもまだ新聞社がウィキリークスを否定するのであれば、「なぜウィキリークスではなく、われわれのところに内部告発する方が良いのか」ということを説得力のある論理で証明しなければならない。そしてそれはほとんど不可能だろう。
マスメディア時代から移り変わって、いまや情報の流れ方は多岐にわたっている。最近は「データジャーナリズム」という言葉もある。政府や自治体などが公開しているさまざまなデータベースにアクセスし、そこから有用なデータを拾い上げて意味づけを行い、グラフなどでビジュアライズしてわかりやすく見せるというジャーナリズムだ。あるいは政府や企業のプレスリリースだって、かつてはマスメディアの記者だけに渡されていたのが、今では直接人々が受け取ったり、あるいはブロガーが自分の記事のタネにするために閲覧するというようなことはごく当たり前になっている。そしてもちろん、当事者自身が「私の知っている真実」を直接ブログやツイッターで発信することも普通の行為となった。
モジュール化するメディア空間
つまりはここでは情報の流通はモジュール化していっているということだ。われわれに降り注いでくる情報全体の空間を「メディア空間」という言葉で呼ぶとすると、そのメディア空間は以前はマスメディアによって一元管理されていた(図1)。

だがYouTubeを使えば、中国船の衝突ビデオを公表することができる(図3)。

またウィキリークスは、内部告発者から情報を直接受け取って人々の直接配信するというサイトを開設し、新たなモジュールをメディア空間の中に設置した。ウィキリークスがYouTubeと異なるのは、マスメディアに機密情報を事前提供するというレイヤーモデルを採用したことだ。つまり情報は、
(1) 内部告発者→ウィキリークス→人々
(2) 内部告発者→ウィキリークス→マスメディア→人々
という2つの経路が作られたのである(図2)。

しかしウィキリークスは創設者のジュリアン・アサンジ氏が逮捕され、サイトもAmazonやPayPalやさまざまな企業から締め出しをくらって、先行きが怪しくなっている。これはウィキリークスがマスメディアを経由しないで直接自分のサイトでも漏洩情報を公開してしまったからだとウィキリークスの中の一部の人たちは考えていて、だからその彼らは独立してオープンリークスというサイトの立ち上げを進めている。これは上記の(1)の経路を遮断し、(2)の経路だけに絞って危険を回避しようという考えである(図4)。

このようにモジュールをどう構築し、情報の経路をどう設計していくのかということが、今後のジャーナリズムの要となる。先ほども挙げたデータジャーナリズムの出現や、さまざまなソーシャルメディアを経由した当事者情報の発信などで、メディア空間の全体像は著しく複雑になって、モジュールがジグソーパズルのピースのように組み立てられた構造になっていこうとしている(図5)。

「新聞とウィキリークスは分離されるべきだ」
ブログ「BuzzMachine」のジェフ・ジャーヴィスは、ガーディアン紙の編集長に「ガーディアンがウィキリークスを始めるべきだと思いますか?」と質問したというエントリーを書いている。返事はこうだった。「新聞とウィキリークスは分離されてる方がいいと思う」
理由は、こうだ。「新聞は政府から攻撃され、圧力をかけられやすい。国境を超えるインターネットの報道機関とはそこが異なっていて、国内においては新聞社はさまざまな責任を背負わなければならないということだ」「だからアフガン戦争でウィキリークスが行ったことはジャーナリズムの好例だとは思うけれども、ガーディアンはそれを担うようにはならない。我々が行うべきなのは、そこでリークされた情報への意味づけを行うことで、そういう専門的な人材もわれわれは擁している」
ガーディアン編集長はそれを「ジャーナリズムの相互補完(mutualization)」と呼び、ジャーヴィスはコラボレーションと言い換えている。内部告発者とメディアとウィキリークスというそれぞれのモジュールがコラボレーションし、そしてジャーナリズムを実現していくということだ。これこそがジャーナリズムがモジュール化された未来である。
これがビジネスとして成り立つのかどうかはまた別に議論しなくてはいけない。しかし少なくとも今後、ジャーナリズムはこの構造へと変化していくことを、われわれは直観的に感じ始めている。
この話、もう少し続く。